レポート
Report
ほくみ能登助成
2025.2.26
「勉強」は口実でもいい。「あったはず」の日常を育む温かな “トコ” 。 〜オヤコノトコ〜

「令和6年能登半島地震 災害支援基金」の中でも「つづける支援活動助成」で採択された11の団体をご紹介していきます。「つづける支援活動助成」は、緊急期の支援のみならず、能登半島地震により被災された方々の生活再建に必要な支援の継続を支えます。
今回は金沢で珠洲から金沢に避難してきた飯田高校の生徒に対して学習支援を続ける「オヤコノトコ」さんへのインタビュー。お話を伺ったのは代表の佐々木修吾さんです。

初めてでも心落ち着く、築100年の町家空間
取材に訪れたのは金沢市大樋町の町家。おむすびやさんや金物屋さん、ギャラリーなどが入居する建物の2階に佐々木さんらが営む学習塾「夜の学び舎 ている」があります。
町家ならではの急な階段を登った先に広がるのは、達磨ストーブと暖色系の裸電球に照らされた温かな空間。「塾」というと無機質なイメージとは異なり、どこか漂う“友人の家”感。みぞれ混じりの冷たい雨が降る中、ちじこまっていた肩がゆっくりと解れていくのを感じます。
能登から避難してきた生徒たちが初めてここを訪れた時も、きっと同じような安堵感を感じたのではないだろうかー‥そんなことに想いを馳せながら。


「町家なんで、ほっとくとめちゃくちゃ寒いんですよ!だから階段に扉をつけてみたりカーテンを買ってみたりー‥日々冷気と格闘しています(笑)」。そう笑顔で迎えてくれたのは「オヤコノトコ」代表の佐々木修吾さん。
佐々木さんは、ここで中高生向けの学習塾「夜の学び舎 ている」を営む他、町家を住み開く「夜の図書館 べーる」の運営、それ以外にも七尾〜金沢〜加賀間と石川県内を縦横無尽に駆け回りながら(毎週の移動距離350km以上!)、小学生から高校生までに数学やプログラミングなどを教えていてます。自身曰く「回遊魚のように泳ぎ続けながら、どこかで誰かに何かを教える人」。

地域における“学校外の教育”の可能性を模索して
「教育」というものに、昔から関心があったという佐々木さん。大学では数学科に在籍し、教員を目指していたそう。しかしあることをきっかけに「教師」になることを諦めたといいます。
「“教職”のための授業が、非常につまらなかったんですよね。『どうしたら面白い授業ができるか』というモチベーションで僕らは来ているのに、その授業が面白くないって矛盾しているし、仕組みとして破綻してるなと。自分が納得感持って取り組めないものを『とりあえずやっておく』ということが全くできない性分なので(笑)、スッパリ教職は諦めました」
教員になるという目標をリセットした佐々木さん。「これから何をするにもITは必要になるだろう」との思いから、大学院卒業後は東京でシステムエンジニアとして6年間働きます。

「ITの知識は全くなくて、エクセルも触れないレベル(笑)。でも“人生の修行期間”としてファーストキャリアは厳しい環境に身を置きたいなと。プライドも何もないから、素直に学べるんですよ」。
「システムエンジニアの仕事も楽しかったんですけど、ずっとデジタルなものと向き合っているうちに『もっと“人間”と関わり合いたい』と思うようになって」。そこで佐々木さんは学び直しを考え、金沢大学大学院 人間社会環境研究科へ入学、地域創造学を専攻します。
「“教員”は諦めても、“教育”というもの自体への関心はずっと持ち続けていたんです。なので大学院の研究テーマも『地域における学校外の教育』だったりと、“学校教育”よりも“学校外の教育”はどんなものがありうるだろう、ということを僕はずっと考えていたように思います」

始まりは、二組の「親子」
それまで教育系のプロボノ活動こそあれど、「災害支援」とは無縁だったという佐々木さんが能登支援を始めるようになったのは、ほくりくみらい基金経由で受けたある相談がきっかけだったと話します。
「永井さん(ほくりくみらい基金・代表理事)から『能登から避難してきて、授業が受けられず“学習の遅れ”を気にしている親子がいる。一度会ってもらえないか』とご相談を受けたんです。学習支援という形であれば自分でもやれるかもしれないなと。それで地震から1週間後の1月8日にほくりくみらい基金さんの事務所で二組の親子と面談させていただき、その翌日から学習支援を始めました」
そこでほくりくみらい基金の「令和6年能登半島地震災害支援基金」の「第1次緊急助成」を申請するために、佐々木さんは「オヤコノトコ」を立ち上げます。

「オヤコノトコ」という団体名をよく見ると「オヤコ」と「ノト」というワードが入っていることに気づきます。
「避難してきた親子のご相談に乗ったことが団体の立ち上げのきっかけになったということもありますが、子どもだけじゃなく 当然ながら親も辛いわけです。親が不安定な状態だと、子どもも安定しない。子どものメンタルを考えた時、親御さんのケアまでできたら良いだろうということで。結果的に親御さんのケアまでは到達できなかったのですが、当初の思いとしてはありました。あとは“能登支援”のために立ち上げた団体なのでどこかに必ず『ノト』と入れたくて。親も子も能登の子。親子でトコトコと前を向いて歩いてゆく。その一歩を踏み出すための“苗床(トコ)”となれるように。そんな想いを、このネーミングに込めました」

「飯田高校」の生徒に対象を絞った理由
オヤコノトコの事業内容としては、「能登から避難してきた学生への無料の学習支援」ですが、特筆すべきが、その支援対象を珠洲市にある「飯田高校」の生徒に絞っているところ。
「最初にご相談を受けたその2人が『飯田高校』の生徒さんだったんですね。初日は2人だけだったのに、翌日はなぜか4人に増えていて、さらに数日後にはまた2名増えてー‥最終的に12名になっていました。飯田高校の子達から口コミで自然に増えていった形なので、結果的に全員飯田高校の子になったという。だから、僕が飯田地区に何かゆかりがあるとか、そういうわけでは特にないんです」

今はまだ“新しい人間関係”をつくるフェーズじゃない
「自然に集まってきたのが飯田高校の生徒だった」という経緯があったと同時に、佐々木さんはあえてそれ以上の生徒募集をかけないことに1月の時点で決断します。
「オヤコノトコは“学習支援”を名目として始めていますが、“勉強だけ見ればいい”という話ではないだろうということは、当初から認識していました。生徒たちの精神面を考えた時、今は『不特定多数の人と新しい人間関係を作る』というフェーズではないと思ったし、まずは気心が知れた知人たちと一緒にいられる環境をつくった方が良いだろうと。なのでSNSなどでもあえて生徒募集の発信はしていないんです」

「『どういう場所が正解なのか』一律に答えがあるわけじゃないのが難しいですよね。僕自身、災害支援は初めてだったし、何の確証もなかったわけですが『今は混ぜない方がいい気がする』という直感だけでやってみた感じです。特に教育系って『こうあるべき』という“理想論”に陥りがちなのですが、今目の前の子達の様子をみながら都度調整して、“ベスト”ではなく“ベター”を目指して手探りでやっていけたらと思っています」
勉強は「建前」でいい。「予定がある」ことの大切さ
1月〜2月はほぼ毎日オヤコノトコとして場を開き、学習指導を行っていた佐々木さん。普段の仕事もパズルを組むような慌ただしいスケジュールの中で、どのように能登支援のための時間を捻出したのかをうかがうと「いろんな仕事をそれぞれちょっとずつ“ギュッ”として、オヤコノトコを“ガッ”と詰め込んだ感じです(笑)」。しかし、そこまでしてでも「この場所を開いておく必要がある」と佐々木さんは感じたといいます。

「避難してきた子ども達は“行き場所”がないんですよね。それこそ1-2月は親戚の家で寝泊まりしたり、ホテルを転々としたりという生活で、子ども同士が集まれる場所がないし、ましてや街中で集って遊びに行くというメンタルでもないでしょう。
そういう状況下において、『予定がある』ってすごく大切なことだと思ったんです。毎日でもここに来る予定があるということ。だからある意味では『学習支援』ってただの“建前”でいいんだよなと思っていたところがあるんです。『勉強』が名目なら、子ども達も言い出しやすいし、親も快く送り出せるでしょう」

「リアルな場所」で治癒されていくもの
SNSが子ども達にも普及し、オンラインで離れた友人とも子ども達同士で連絡がとりあえる現代。しかし佐々木さんは「リアルな場所」がある意味を、オヤコノトコの活動を通じて実感したといいます。
「オヤコノトコを始めたばかりの頃、ここに来るなり泣き出してしまう子がいたんです。いろんな感情がその子の中で渦巻いていたんでしょうね。何があったのか分からず僕がオロオロしていたら、後から次々と生徒がやってきて。すると段々彼女の表情は明るくなって、そのうちに言葉も出るようになっていました。
別に会話しなくても、何となくみんなの気配を感じているだけで落ち着いていくこともあると思う。SNSって積極的にコミュニケーションを取れる子には便利だと思うけれど、そうじゃない子もたくさんいると思うし、コミニケーションって会話や文字だけじゃない。特に震災のような精神的に揺れ動きの大きい状況下だと、ちゃんと落ち着いて、今までの日常を感じられるリアルな場所が大事だと思ったんですね」

そしてそれは“新しい居場所をつくる” というよりも、あくまで「あったはずの生活の代替のようなもの」でありたいと佐々木さんは語ります。
「もし地震がなければ、今頃彼らは普通に毎日顔を合わせながら学校生活を送れていたはずなんです。その本来 “あったはずの学校生活” を少しでも補うものというか、もちろん完全には無理でも“代替”になれるような場所であれたらと思っています」

バラバラになったからこそ、“接点”であり続けたい
1月に受けた相談から急遽始めた学習支援は「令和6年能登半島地震 災害支援基金」の「第1次緊急助成」などの助成を受けながらスタートした活動ですが、佐々木さんはこの活動を継続していくことを考え、6月に「つづける支援活動助成金」にも申請しました。
「最初の1〜3月までは“オール飯田”というか、同じ場所にみんなで固まっていられたんですが、段々フェーズが変わっていって。金沢の学校に転校を決めた子や、珠洲に戻る子もいたりと、みんなそれぞれに新しい生活が始まってバラバラになっていったんですね。だからこそ、“接点”があり続けることは大切なんじゃないかと思ったんです。なので今はここにくる子と、オンラインで参加する子と、ハイブリット形式で学習支援を続けています。
本当は“修学旅行”みたいなこともやりたかったんですよ。『飯田高校のメンバーで修学旅行に行きたかった』って、よく子ども達が話してたから。でも高校生ってめちゃめちゃ忙しくて(笑)!部活もあるし土日には模試があったりー‥それで学校がバラバラだと予定が全く合わなかったんですね。それはちょっと心残りですね」

つづける支援活動助成の大半は、大学生を中心としたほぼマンツーマンの学習サポーターをはじめとするスタッフの人件費と、生徒達の塾までの交通費が占めています。「第1次緊急助成」と「つづける支援活動助成」を申請してみて、ほくりくみらい基金の助成を受けた感想をうかがうと「純粋に『すげー』と思いました」と佐々木さん。
「スピード感もそうですし、これだけ多種多様な団体の膨大な情報量をコントロールするなんてもう信じられないというか。支援の内容も現地でのハード系のものからメンタルケアに至るまで幅広いジャンルをカバーして、かつ『地震』と『水害』それぞれで助成事業を実施している。僕なら完全にキャパオーバーになってると思いますもん」

支援されていることすら気づかせない「空気」のような支援
佐々木さんが能登支援として続けてきたことは、あくまで「無料の学習塾」であり、そのための“場”と“時間”の提供です。「だから生徒からすれば『支援を受けている』というより『無料の学習塾に通っている』という感覚なんですよ」と佐々木さん。それはまるで、もともとあったかのように日常に溶け込む “静かな支援”。
「なんというか、ここは“空気”みたいな場でありたかったんです。子ども達に『支援されている』ということすら気づかせずに支援したいというか。あとで振り返った時に『ちょっといい時間だったな』と思ってもらえたならそれで十分で」

「被災者支援というと『特別なことをしなきゃ』って思いがちなんですけど、『特別なこと』をすることが、かえって被災者の負担になることもあるというのは今回やってみて感じたことです。もちろん家が崩れたとか、食べるものがないとか、物理的なものに関しては一刻も早い『特別な支援』が必要だと思います。でも、子どもたちですら『何でもかんでも与え続けられること』に恐縮するというか、遠慮する姿を僕は見ていたので。これは大人か子どもかに限らず、能登の地域性もあると思うけれど、僕が見ていた飯田高校の子達は特にそうでしたね」
「自分が見える半径」の中で、個人ができる支援
飯田高校の生徒12名という、受益者をかなり限定する形になった今回の支援。「体がたくさんあるのならどこの高校でもやりたいところですが、どう足掻いても体は一つなので」と佐々木さん。同時に「『全部を救おう』なんて、僕らが思わなくていいと思うんです」と続けます。
「“平等”を目指すのは行政がやることで、個人が平等を目指していたら、それこそ何もできなくなりますよね。だからこそ“自分が見える半径”の中で、“自分にできる範囲の支援”でいいんじゃないかと思うんです。でないとそれは自分のキャパオーバーにもつながってしまうし、“自分の生活を投げ打っても”となれば今度は一緒に仕事をしている周りの人に迷惑がかかる。色々手を出しすぎてしまって、目の前の子ども達に何もできなくなってしまったら、それこそ本末転倒ですよね」

「つづける支援活動助成」は2025年1月末を以って終了します。しかし佐々木さんは助成期間に関わらず「今みている子達が卒業するまで」は、活動を継続する予定だそうです。
「ここまできたら、もう彼らが卒業するまで見届けたいという気持ちがあります。活動は続けていきますが、もし彼らが新しい生活に居場所を見つけられたなら、別にもう来なくなってもいいと思っているんです。でももし、何か辛いことがあった時に逃げられるとか、誰かがいるとか、そういう場所であれたらなとは思っています」

自分の職能の延長線上にある、目が届く半径でできる支援。佐々木さんの試みは「支援を本業としない私たち」にもできる支援の一つの在り方を見せてくれています。そしてそれが「日常」に組み込まれ、普段の仕事のように無理のない形で回り出したなら、「支援する側」だけでなく「支援される側」にとっても負担感がなく受け取りやすいものになるのかもしれないと感じました。
(取材:2024年12月)
文章・写真:柳田和佳奈
金沢に移り住んで早15年以上。2児の母。情報誌の編集者を経て、現在は「株式会社ENN」の広報担当や、個人でライターや編集業も行っています。
「能登とともに基金」は、令和6年能登半島地震・令和6年9月能登半島豪雨に関する支援活動を支える基金です。
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